こちらは続編… ギターのサイト内ではありますが、全くの脱線ページです!

おとぎ列車の廃線跡 2016

~43年後の狭山丘陵を、またも自転車で迷走したオヤジの記録~

ふとしたネガの発掘に端を発した、前ページの「西武山口線の奇跡 1973」。

当時足しげく通ったおかげもあって、40数年経った今でも記憶と路線図と僅かな資料だけであれだけの記述ができるのですから、手前みそながら大したものです。えらいぞ俺!

 

さてそうなると、今はどう変貌しているのかが気になります。もちろん廃線跡探訪も盛んな今日なので、あちこちのブログ等で先人たちの記述を目にすることはできます。しかしその二番煎じというよりは、前ページとの絡みとして”おとぎ列車”の廃線跡探訪は必須であろうとの結論に達し、早い話が行きたくなったので、2016年11月 遂に敢行しました。

(気持ちが)少年時代に帰るという名目もあり、また現地での活動の便を鑑みて、疲れを覚悟で自転車での探訪としました。

道路事情は若干良くなっており、難なく西武多摩湖線の武蔵大和駅までは到着しましたが、やはり下堰堤に上がるまでは、息が切れて昔どおりとは行きませんでした。

しかし下堰堤の向こう側に西武遊園地が見えると、俄然ファイトが湧きます。

汗ばんだ顔に、湖上の風が涼やかです。

下堰堤の中央に、望岳台として山岳表示板が設置されていました。なるほど多摩湖の堰堤上からだと、奥多摩の名峰が一望のもとに見渡せて、こちらもさぞかし壮観でしょう。

ここからだと大菩薩連嶺が、三頭山に隠れて見えないというのは、少々意外でしたが…

高校生の頃に奥多摩の登山に取りつかれ、表示板の山々は殆ど単独踏破しましたが、当時は登山ブームも訪れていない時代で、誰とも出会わないことも珍しくありませんでした。

 ※上堰堤は都道55号線の車道のみです。危険ですから望岳は行わないでください。

<あらかじめ…>

・当コラムでは廃線跡探訪のためSL牽引時代の ”おとぎ列車” と、昭和60年(1985)に改

 修された ”新交通システム” が頻繁に登場します。どちらも「西武山口線」という呼称な

 ので、前者を ”おとぎ列車”。後者を愛称の ”レオライナー”で表記させていただきます。

・ ”おとぎ列車” 以外の通称として ”おとぎ電車”  ”おとぎ線” も使われていましたが、 ”お

 とぎ列車” で統一してあります。

・ ”多摩湖” の正式名称は ”村山貯水池” 。 ”狭山湖” の正式名称は ”山口貯水池” ですが、

 これも煩雑になるため前者(通称)で統一しました。

<路線図と撮影場所>

1984.5 さよなら蒸気機関車・おとぎ電車 記念乗車券より路線図を使用させていただきました。
1984.5 さよなら蒸気機関車・おとぎ電車 記念乗車券より路線図を使用させていただきました。

 ①遊園地前駅跡 ②山口検車区跡 ③トンネル・中峰信号所跡 ④山口信号所跡

 ⑤鉄橋跡 ⑥S字カーブ跡 ⑦サミット(峠越え)探訪 ⑧ユネスコ村駅跡

①遊園地前駅(旧西武遊園地駅)跡

 

現地に着いてしばし唖然… 嘆息…

変貌というか、全く別の場所みたいです。

記憶では、ジェットコースターの脚の手前に遊園地前駅の駅前広場と西武遊園地の入口があったように思うのですが、痕跡が無いので、正確なところは分かりません。

改修後のレオライナーは地下をくぐり抜けているので、この場所では見えません。

 

ジェットコースターの反対側まで進んでみました。ここは山口検車区との間の機回し風景が見られたところですが、整地のうえ植樹されているので、やはり跡形もありません。往時を偲ぶのは難しいですね。

写真では分かりにくいのですが、ジェットコースターの平坦地の先が一段下って遊園地となっているところに、当時の地形とを重ね合せることができるくらいです。

相模原市にお住いの K.T.様よりお借りした写真を追加することができました。

この場を借りて、お礼申し上げます。

定点対比ではありませんが、西武遊園地駅の周辺が広角で収まっているので、当時の地形と施設配置を伺うことができます。

右側の木立の辺りが多摩湖の周囲道路なので、上掲の植樹の辺りは、駅の跡地ではなく駐車場だった可能性があります。

 

現在の遊園地施設と大まかに対比すると、ジェットコースター下が西武遊園地駅と軌道。

植樹されているところが駐車場と空地という構成で、ほぼ合致していると思います。

②山口検車区跡とその界隈

<山口検車区跡>

レオライナーの遊園地西駅前の広場です。

この辺りに山口検車区がありました。

平坦で広い地形に「あったんだな~」と思わせる程度。ただ中央左側のアスファルトが切れた辺りから土地が一段下っているところに、当時の写真との共通点を見い出せます。(撮影方向が反対ではありますが)

写真の右側に、遊園地西駅があります。

 

遊園地西駅から出てきたレオライナーの軌道を撮影。全体に当時より掘り下げられているのでは?という感じがします。

何故なら、レオライナーはこの先の市道をトンネルでくぐっているのですが、おとぎ列車にはそこに最初の踏切があったはずなのです。そうでなければ脇の側道の勾配が急すぎて、たぶん登れなかったでしょう。

 

振り返ってみると、こんな感じです。

トンネルの上に、前述の市道があります。

レオライナーの軌道を開削しない場面を想像することで、当時の地形との大よそのつじつまが合ってきました。写真の、更に左側に古くからある割烹旅館“掬水亭”さんの後ろをかすめるように軌道が走っていたので、写真の左下から右中にかけてが、かつてのおとぎ列車の軌道跡だったはずです。

<踏切跡>

遊園地西駅の入口まで戻ったところです。

フェンスの先が市道。渡った先に伸びる道路が、ほぼおとぎ列車の廃線跡だと思われます。左端の車の向こう側はコンビニの駐車場ですが、おそらく斜めに横切るように踏切と路線があったと記憶しています。

何分30数年を経て整地が進んでいるため、完全なトレースは難しくなっています。

 

 ※後述しますが、本廃線跡探訪におけるこのコンビニの存在は、たいへん貴重です。

<レオライナー軌道との合流直前地点>

コンビニ駐車場の先は、このような荒地になっています。右端の電柱から左端にかけて、雑草地と藪の境界あたりにおとぎ列車の軌道が走っていたと思われます。

左端の先は市道をくぐったレオライナーのトンネル出口なので、ようやくおとぎ列車とレオライナーの軌道がほぼ重なるところまで進んで来たようですね。

③トンネル~中峰信号所跡とその界隈

単線運行路線の西武山口線は、おとぎ列車時代から列車交換のための信号所を設けていましたが、レオライナーにもそれは受け継がれ「旧中峰信号所」より数百メートル西武遊園地寄りに「東中峯信号所」が設置されました。そのため位置と名称が変わっています。

つまり名称は似ていても、おとぎ列車の「中峰信号所」跡が、現在の「東中峯信号所」ではないというところがポイントです。

<東中峯信号所> 

東中峯信号所を西武遊園地側から撮影しました。レオライナーは地下鉄の第三軌条と同じく地上側から集電を行うため、架線の鉄道より危険度が高いという理由で、踏切なしはもちろん、軌道内への立ち入りも厳重に制限されて、まるで新幹線のように防護柵が張り巡らされています。そのため、撮影ポイントも限られてしまいます。

 <トンネル跡1>

ここはおとぎ列車の時代はトンネルだったところで、台湾から来たSLとの交代時に、建築限界の都合で切通しに改修されてしまいました。レオライナーの軌道がゴルフ場側にそれてくれたおかげで廃線跡を留めていますが、多摩湖周囲道路を渡って現地を見ることは、交通量が多くまた柵を乗り越えなければならないのでお勧めしません。

定点対比その1。K.T.様よりお借りした写真です。

上掲の私の写真とほぼ同位置での撮影。周囲道路のカーブの様子(縁の落ちかげん)に当時の面影を見いだせますね。K.T.様はトンネルの天板の上で撮影されていますが、同じポジションでの撮影はトンネルが開削されてしまって以降、叶わなくなってしまいました。


<トンネル跡2>

上掲の位置から振り返ったところ。

トンネルだった切通しの現状はこんな感じです。おとぎ列車で紹介した写真はユネスコ村側でしたが、これは西武遊園地側の方からの様子です。

ユネスコ村側の方は藪になってしまい、遺構が全く分からない状態になっています。

<中峰信号所跡>

おとぎ列車時代の中峰信号所があった場所は、多摩湖周囲道路沿いにあったためか、レオライナーの軌道から外れた草藪になって残っていました。雑草の下には、往時の交換用ホームなど眠っているのではないかと期待してしまいましたが、現在は変電所として使われているようで、カーブの先に入口と詰所が設置されています。この箇所のガードレールは、当時物っぽいですね。

④山口信号所跡とその界隈

<レオライナー軌道と廃線跡の分離地点>

レオライナーの軌道は、西武球場の手前で右に曲り、トンネルに入って西武球場前駅へと抜けて行きます。おとぎ列車の軌道は多摩湖周囲道路沿いに伸びて、山口信号所の跡に向います。つまりこの地点からは、レオライナーの軌道が重複しない、真の廃線跡が始まるのです。写真中央右寄りに、レオライナーのトンネルが見えます。

 

少し進んでドームの手前から振り返ったところ。白い物置の位置が、上掲の写真との位置を対比する目印になります。

左側のフェンスと周囲道路の安全柵との間が、西武山口線の廃線跡になります。

この敷地を残しておく目的が分かりませんが、これだけ明瞭だとビギナー探訪者の方でも、容易に見いだせると思いますよ。

 

同地点からユネスコ村駅方向に視線を戻すと、廃線跡は適度な間隔を維持しながらも更に進んで行きます。なだらかなS字カーブの先が、山口信号所跡になります。

右側の建物は西武ドーム(西武球場)で、

屋根なしだった西武ライオンズ球場時代よりも、施設が周囲道路側に増築されています。手前の道路はその通用口用で、ゲートが設けられて立入が制限されています。

 

上掲の西武ドーム通用口ゲート脇に、遺物(枕木)を発見。このように地面に打込んだ状態で、何に使用したのでしょうか?

少し離れたフェンスの下には枕木そのものが放置してありましたが、これも用途が分かりません。いずれ撤去されてしまうのは明白でしょうに、せめて有効に活用してもらいたいものです。

 

西武ドーム沿いに進んだ地点から、西武遊園地方向を振り返ったところ。

球場のグリーンのフェンスと、周囲道路のガードレールとの間の緑地が、西武山口線の廃線跡として続いています。

フェンスの手前側に歩道があるのですが、一般用の遊歩道ではなく、関係者の通路として使用されているようです。

<山口信号所跡>

西武ドームの裏を過ぎると関係者専用と書かれた駐車場があります。おそらく野球選手たちはこちらを利用するのでしょう。

ちょうどこの辺りが山口信号所でしたが、整地と植樹で元の地形は見出せません。

おとぎ列車の廃線跡は道路となって残されており、狭山スキー場へと続きます。

おそらく関係者専用というか遊歩道からは立ち入れませんので、ご注意ください。

更に進むと、狭山スキー場の建物を境にしてフェンスとガードレールは合流し、その内側は関係車両用の敷地に変わりました。

ちなみにおとぎ列車の廃止後にスキー場のコース延長工事(20m)が行われ、それが前述の境となった建物にあたります。

スキー場の位置関係は変わりないので、おとぎ列車当時の山口信号所の写真と対比してみると、建物の直前で分岐して複線が始まった辺りではないでしょうか。

<鉄橋への築堤跡1>

山口信号所の敷地跡が終わると、鉄橋へのスロープが始まります。遠くに見える草地には、整地が到達していないようですね。

SLの力行が始まった様を思い出します。

<鉄橋への築堤跡2>

草地の手前側から見た、鉄橋へのスロープです。完全ではありませんが、かって築堤があった様子を偲ばせるのには十分です。

ちょうど中央のあたり。右からのフェンスが途切れているところへ、軌道が続いていました。周囲道路が下っているので勾配がきつく見えますが、実際はそれほどではありません。しかし軽便鉄道のSLにとっては、けっこうな負荷だったと思われます。

⑤鉄橋跡とその界隈

かつて鉄橋があった地点の全景です。

現在は多摩湖の周回遊歩道が整備されており、県道55号線をオーバーパスする自転車&歩道橋が作られましたので、初めて俯瞰することができるようになりました。

道路が県道55号線。左側の建物は「湖底の村公園」に復元された“慶性院の山門”でおとぎ列車の時代には無かったものです。

→ 追記

追記:勢いで筆を進めてしまったため、考証なしに書いてしまいました。すみません。

“慶性院の山門”は復元されたものではなく、多摩湖(村山貯水池)用地内となった石川の谷の慶性院というお寺が用地外に移転するにあたり、そこへ取り残されてしまった山門を文化財的価値が高いとの判断から昭和29年(1954)に現地へ移築したものでした。

その後荒廃が進む一方だったものを東大和市が平成 4年(1992)に修復し、今日に至っています。なのでおとぎ列車の時代には存在したはずなのですがイマイチ記憶から抜け落ちてしまっているのは、荒廃していて写真の状態ほど存在感が無かったのかもしれません。

 

道路に降り立ったところ。この写真の方が当時の雰囲気にいくらか近いです。

少年の鉄橋写真にも電柱が写っていましたが、それは1本先に相当するもので、写真の電柱は少し手前のものと思われます。

おとぎ列車の項でも触れましたが、鉄橋は自然の谷を渡るものではなく、狭山丘陵の尾根筋を人工開削した切通しに作られたものでした。

 

左側の土手の現状。

橋台や橋脚に類するものは、一切残されていないのが寂しいところ。でも昔“鉄橋があったんだよと”言われれば、それらしいねとくらいは返せる感じの地形ですね。

右上の木々の間が空いている辺りから鉄橋が伸びていたと記憶します。

 土手の右側は、木々が繁茂して藪になっているため、全く分かりません。

少年の写真にあるとおり、こちら側にはアンダートラス橋時代に立派なコンクリート製の橋脚があったのですが、ガーダー橋に改修されたときにどうなったかを記録していないため、遺構の推移が分かりません。

鉄橋の位置関係は、道路左側の県道の標識と、右側の電柱の手前側を結ぶあたりだと思っていただければけっこうです。

 

何も無いって決めつけてって、本当に何も残されていないんですって(笑)。

ただの藪に返ってしまっています。

何処を写したかといえば、2段上の「左側の土手の現状」の反対側を写しました。

⑥Sカーブ跡とその界隈

Sカーブと呼ばれた区間は極めて狭小な空間ではありましたが、平坦地で列車のほぼ全景がカーブによってカメラに収まることもあって、おとぎ列車を代表する撮影地として絶大な人気を博し、記念切符やレオカード等にも必ずと言っていいほど採用されています。

 

Sカーブがあった台地を、県道55号線をはさんだ遊歩道側から見たところ。

線路は、右側の茂みと奥の木々の間から出てきて、左端で奥の方に向かってカーブしていました。

定点対比その2。広場に上がって鉄橋があった方角(西武遊園地方面)を見たところを、おとぎ列車の時代と対比しました。軌道と柵、樹木の生え具合の違いに歳月を感じます。

中央右の樹木が途切れたところが鉄橋跡と早合点してしまいそうですが、ここは“湖底の村公園”への降り口になっておりまして、正しくはその左隣の低い灌木になったところです。

まぁ途切れたままだと、鉄橋の項でご紹介したとおり下は切通しになっておりますから、危のうございますね(笑)。

※広場につけられた踏み跡は公園になってからのもので、軌道跡と同一ではありません。


定点対比その3。柵の有無や樹木の生え方は変わっていますが、地形はほぼそのままであることが分かります。丘陵の尾根筋を縫うという、あまり他の軽便鉄道に見られない線形ですが、地形を巧みに活かして敷設されそれが見せ場になっていたところが魅力でした。

当時を見ているだけに、廃線跡を眺めているだけで懐かしい情景が思い浮かびます(涙)。


定点対比その3。更に進んで、“堤新亭”さん方面を見たところ。道路は県道55号線。

木々に隠れて見えませんが、“堤新亭”さんの建物が健在ですので定点観測できます。

軌道は広場を半周するようにして、電柱と樹木の間へ抜けていたと思われます。

いま思えば記念切符で使われていたアングルは、柵の内側からじゃないと撮影できないことが分かりますね(笑)。


 

Sカーブ跡の、ユネスコ村側出口に接近。

電柱と樹木との間から“堤新亭”さんに向って軌道跡が続いているのが分かります。

 

Sカーブを出た軌道は、県道55号線とほぼ並走するのですが、前述のとおり敷設前に既に“堤新亭”さんが建っていたため、その裏手を迂回するように路線ができました。

廃線跡はほぼ白いガードレールのある路地に準じてはいますが、その先で道路は右に下ってしまうため、途中からは廃線跡では無くなってしまいます。

それについては次項でご紹介します。

⑦サミット(峠)を中心とした遊歩道区間

「西武山口線の奇跡 1973」で最も写真が失われていた箇所が、このサミット区間です。

そのため新旧を対比してお見せできないのが残念ですが、その代わりこの区間の軌道跡の大半が、歩道あるいは遊歩道として整備されているという、探訪に最適な状況で保全されていることを、たいへんうれしく思います。

 

この区間はやや複雑でして、先ずSカーブを抜けた軌道が県道55号線の際まで近づいて踏切跡を過ぎてから“堤新亭”さんの裏手に廻り、また県道55号線沿いに戻ってきます。

現在は山口観音(金乗院)の山門がある前を通過して、方角を北に向けるように、狭山丘陵の山域へ入り、小さなサミット(峠)をひとつ越える山岳路線に変わります。

県道55号線は武蔵村山市方面に直進して遠ざかり、軌道跡はそこからT字路で分岐する狭山湖方面への市道に沿って、かってユネスコ村があった地点を目指すという流れです。

 

上掲の写真の先を写したところです。

車の左側、その先に続く道路がいかにも廃線跡なのですが、それは山口観音(金乗院)への道路で、軌道は築堤になってそれを小さなガーダー橋で渡っていたはずです。

隠れた見どころだったのですが、部分的に地形が改変されて失われてしまいました。

下の写真との繋がり部分が撮影から漏れていましたので、後日の課題とします。

 

廻りこんで先の方から上掲の地点を振り返った(西武遊園地方面を見た)ところ。

いかにも廃線跡という雰囲気が満点です。

遊歩道というにはちょっと整備が足りていませんが、むしろこういうところは残していただければうれしいですけれどね。

 

更に進んで、西武遊園地方面を振り返ったところ。この区間は左側が崖になっていて狭山湖駅(現・西武球場前駅)方面からの展望が開けていましたが、現在は植樹されていて展望が遮られてしまいました。

遊歩道らしくなって、ベンチがあったりします。右手に庭園のような煉瓦と植木のおしゃれな囲いがありますが、現状は空き地です。

 

道路を渡って、山口観音(金乗院)の敷地前を通過します。右手は県道55号線。

“堤新亭”さんの迂回から、県道の脇に戻ってきました。

 

振り返って、県道との並走が始まる区間を見たところ。

 

県道と並走し、山口観音(金乗院)の山門前にきたところ。ちなみにおとぎ列車の時代には、こちら向きの山門は無かったように記憶しています。

 

県道との並走区間を進んで、山口観音(金乗院)の山門前を通り過ぎたところ。

廃線跡との間が駐車場になっています。

 

山口観音(金乗院)の山門を過ぎると、県道は緩やかなカーブを描いて立川・武蔵村山市方面へと西向きに進路を変えます。

廃線跡は、山口観音(金乗院)の敷地を囲むように県道とは別れて、いよいよサミット(峠)の区間に入ります。

 

県道と離れた地点からサミット(峠)の方向を見たところ。遊歩道というよりは、業務用の車道を兼ねている感じですね。

緩やかに右カーブしているため、サミット(峠)は直接見通せません。

 

この地点から先にかけてが竹林になっていて、知る人ぞ知る有名撮影地でした。

 

サミット(峠)の最頂部から上掲の地点方向(西武遊園地方向)を見下ろしたところ。

この竹林は、おとぎ列車時代にも見覚えがありましたが、勾配がかなり急というか急過ぎる(碓氷峠まっ青)ので、この箇所に限っては、正確に軌道跡をトレースしているのかが、疑問になってきました。

※後述の訂正文(追記)ご参照ください。

 

サミット(峠)の最頂部からユネスコ村方向を見下ろしたところ。上掲と同様に最頂部のところだけがやたら急で、自転車でもスムースに通過できませんでした。

軽便鉄道がこんな急坂を登坂できるわけがないので、おそらく一段下がった辺りで最頂部のみを迂回していたのではないかと推測します。それにしてもこの先のカーブの良い雰囲気は、例えようがありません。

追記:ルポ作成からしばらく経って記憶が甦りました。この勾配区間は、サミット(峠)の最頂部であると同時に、緩いカーブの切り通し区間になっていたところでした。

おそらく遊歩道に改修する際、埋め戻して自然(に近い)尾根筋に復元したのでしょう。

廃線から既に30数年が経過している現状で、埋め戻す前の痕跡を見出すことは困難です。

定点対比その4。K.T.様よりお借りした写真です。

私の廃線跡写真とほぼ同位置での撮影。最頂部の切り通し区間が埋められて、遊歩道になっている様子が伝わると思います。


 

さて下界(笑)はどうなっているかと申しますと、ここが県道55号線と狭山湖方面への市道とのT字路です。

軌道跡は、山中で右方向にカーブして、市道沿いに北へと方向を変えています。

余談ですが、狭山湖の建設時に敷設された

羽村からの軽便鉄道も、この地点で市道の左側に軌道を作っていました。今から90年くらい昔のお話ですが…

 

T字路を右折してすぐの地点からの市道。

正面が狭山湖方面で、直進が終る辺りがもうユネスコ村の跡地です。

 

時代は離れますが、この地点は左側を狭山湖建設の軽便鉄道。右側を西武山口線のおとぎ列車が走っていた、幻の“デュアル軽便街道”だったのですね。

 

下界から軌道跡に戻って、サミット(峠)を少し下ったところから最頂部方向を振り返ったところ。右手は狭山湖方面への市道で、道路のほんの脇に軌道がありました。

狭山丘陵の肩を通っていたのですね。

左側には遊歩道の“あずまや”が設けられていますね。おっとその階段は…

 

ありました! 枕木を使った階段です。

 

ユネスコ村駅の跡地に向かって、サミット(峠)から更に下ります。ちょっと見にくいですが、右の土手にも階段が…

 

この片土手の路盤にも和まされますね。

いかにも“軽便鉄道”といった、やりすぎていない土木工事というか、元の地形もそれほど損なっていないというか、正にフル規格新幹線の対極に位置していますね(笑)。

 

何箇所かに使われていますね。いつまでもこの場所にあって欲しいものです。

 

をおっ!枕木の山。廃線跡探訪者にとっては、正に象牙の山に匹敵するお宝です。

でもこうして積んであるだけだと、朽ちるのを待っているようで悲しいですね。

 

記念に「おとぎ列車のレール」と一枚。

悪のりして持ってきちゃいましたが、昔の盟友だったレールとの再会は、喜んでもらえたでしょうか?

 

少し下ったところから、サミット(峠)の方向を見上げたところ。坂も急ですが、樹木が常緑樹で濃いせいか、やや深山の趣があります。すぐ横は市道なんですけれどね。

 

下界はというと、こんな感じです。

右側の雑木林の中が狭山丘陵の肩になっていて、そのすぐ道路脇に軌道が通っていました。

 

サミット(峠)の区間も終わりが近づきました。勾配も緩やかになり、最頂部も遥か後方です。ユネスコ村駅跡まであと少し。

 

右側のフェンスはそのままユネスコ村駅跡まで続いていますが、おそらくおとぎ列車時代に使われていたものが残され、今日も遊歩道用に使われていると思われます。

 

同地点からユネスコ村駅跡方面を望んだところ。狭山丘陵の林が切れて光が差し込んでいる先に、終点のユネスコ村駅跡があります。この辺りでは丘陵の肩という地形ではなくなって、軌道があった部分が盛り土されていた形跡が見られます。

軌道跡を下りきって、ユネスコ村駅跡前の道路(踏切跡)からサミット(峠)の方向を見たところで定点対比(ちょっと位置はずれていますが…)。フェンスが同じものですね。

目を閉じると、そこに軌道があった頃の様子が瞼の裏に浮かびます。涙…

定点対比その5。


 

樹木帯から軌道跡が出てきたところを、市道の反対側から見たところ。

左から右に向かってが西武遊園地駅への方向で、緩やかな上り勾配になっています。

⑧ユネスコ村駅跡とその界隈

 

遊歩道になった軌道跡も終わりに近づき、ユネスコ村駅があった場所が見えてきました。進入防止柵のところの道路は、かつてはユネスコ村の入口と駐車場に使われていたもので、軌道を渡る踏切がありました。

定点対比その6。K.Yamada様撮影の写真をお借りし、追加することができました。

この場を借りて、お礼申し上げます。

私の廃線跡写真は踏切跡のほぼ上。K.Yamada様のポジションはでユネスコ村駅の構内側からなので10mくらい開きがありますが、道路や駐車場の位置関係がほぼ当時のままであることが、お分かりいただけると思います。お借りした写真がたいへん鮮明なだけに、まるで夏に撮影した写真が初冬には廃線跡化してしまったような錯覚を受けてしまいます。


 

踏切跡から軌道跡を振り返ったところ。

サミット(峠)に続く緩やかな坂道が、往時を思い起こさせます。

この区間だけでも線路を敷いて軽便鉄道を復活させられないものですかねぇ…

 

ユネスコ村駅跡。整地されたうえに植樹されているので、痕跡は分かりません。

踏切だった道路が、かろうじて位置関係を明確にしてくれるだけです。嗚呼…

 

ユネスコ村自体が廃園になってしまい、跡地が狭山不動尊や山口観音(金乗院)を中心とした宗教施設に様変わりしてしまったことに、時の流れを感じます。

<これから探訪してみたい方へ>

現地には「廃線跡」にちなむ道標や解説の看板は一切ありません。きちんと下調べをして地図や資料を持参しないと、訪れても何も分からない事態に陥るのでご注意ください。

私の訪れた 2016年11月から、何らかの事情で現地が変貌している可能性もあります。

私の探訪時に立ち入れても、後日立ち入れなくなっている場所があるかもしれません。

廃線跡探訪は自己プラン・自己責任が原則です。無理のない計画を立てて臨みましょう。

 

私は住まいが近隣で自転車を使える利点がありました。

過去に訪れて土地勘があったことから、西武遊園地駅の方からスタートしましたが、廃線跡ビギナーの方には、西武球場前駅から比較的近くにあって行きやすい、鉄橋跡からユネスコ村駅跡に続く、歩道として探訪できる区間をお勧めします。

その理由として西武遊園地駅跡~鉄橋跡間は、レオライナーとおとぎ列車との軌道跡が重なって、見分けの難しい区間があること。廃線跡との間に、多摩湖周囲道路と遊歩道とが柵で明確に区切られて近づきにくく、観察できるポイントが限られていることが挙げられます。

<交通>

*西武鉄道狭山線 西武球場前駅 下車(西武池袋線 西所沢駅乗換)

西武球場前駅の道路が、このリポートに頻繁に出てくる県道55号線です。それを多摩湖方向に歩くと鉄橋の項で出てきた切通しを抜け、多摩湖の上堰堤の北側に出ます。

そこの交差点で多摩湖周囲道路と交わりますが、県道55号線に沿って右折します。

この辺りは交通量が多いうえ、歩道が狭く危険なので、先ずは多摩湖周回の遊歩道に入ることをお勧めします。ただしこの遊歩道は県道55号線を挟んで多摩湖側に作られているため、安全ではありますが、皮肉なことにおとぎ列車廃線跡の探訪には全く使えません。

Sカーブのあった台地が見えたら“堤新亭”さんへの渡り口を見つけて、県道を“堤新亭”さん側に渡る必要があります。交通量が多い時間帯もあるため、十分気を付けてください。

Sカーブのあった台地を見学したら、後は“堤新亭”さんの裏手を通る道なりに県道55号線に沿った遊歩道(多摩湖周回の遊歩道ではなく山口観音側)がありますので、順にユネスコ駅跡まで探訪できると思います。

<季節>

私は11月下旬に探訪しましたが、晩秋~早春にかけてがお勧めです。

気温が低く日照時間が短いというハンデはありますが、

 ①草が枯れて木々の葉が落ちている。→ 元の地形が分かりやすい。見通しが利く。

 ②昆虫やへび類の害に遭いにくい。

 ③衣類で暖を調節でき、暑さでバテることが少ない。

というメリットがあります。

<天候>

ウォーキングだけを考えれば晴天の日となるのですが、撮影という観点では曇天の方が向いています。これは反射や影の写りこみが少なく、逆光を考えなくても好きな方向から撮影が可能(なことが多い)であるためです。これは私の主観なので異論もあると思いますが、ご紹介した写真のほぼ全てが曇天なのは、日を選んだためで偶然ではありません。

晩秋~早春にかけてだと夕立や落雷に遭う確率は低いとは思いますが、その他の季節では都心から近いとはいえ、丘陵の尾根筋を歩いていることには十分な注意が必要です。

<ご注意・その他>

かつてユネスコ村があった場所とその周辺は、狭山不動尊と山口観音(金乗院)をはじめとする宗教施設と墓地が多くを占めています。私はこれらへの立ち入りを行いませんでしたが、散策の一環で立ち入る際は参拝者の迷惑とならないよう、ご配慮をお願いします。

またこれらの敷地内を通過することで、西武球場前駅~ユネスコ村駅跡をショートカットできるかもしれませんが、前述の理由で公道による探訪をお勧めする次第です。

 

多摩湖の散策は周回遊歩道で車道とは分離されていますが、サイクリングロードと共用されているため、自動車以上に注意が必要です。また車道とは柵やガードレールでかなり明確に分離されているため、横断歩道以外で車道の反対側に渡ることはお勧めしません。

 

おとぎ列車の廃線跡の近くには、コンビニは1件。それも西武遊園地から最初の踏切跡の脇にあるだけ。あとは西武球場前駅の周辺以外はありません。途中、“堤新亭”さんをはじめ食事ができるところは数件ありますが、飛び込みで可能かどうかは分かりません。

公衆トイレは多摩湖の下堰堤と上堰堤の近くにそれぞれあり、案内板も立っています。

 

この項の冒頭にも書きましたが、廃線跡探訪は自己プラン・自己責任、そして公衆道徳をお守りください。無断立入(不法侵入)、ゴミの不法投棄、遺物の破損・盗難は厳禁です。

 

翌2017年の おとぎ列車の廃線跡再探訪記 をご併読いただければ幸いです。